「10代後半に感じていたあの生きづらさって、なんだったんだろう?」という疑問が湧いてきたことがありました。
首に真綿を巻き付けられたような息苦しさ。どこを見渡しても、逃げ道がないような閉塞感。社会なのか、大人なのか、何かに対する怒りとか敵対心や抵抗感。
今になって振り返ってみると、生きづらさの正体は〈柔軟性の低さ〉だったように思います。
1つの出来事に対して、自分の考えや見方だけに固執して判断してしまう見識の狭さ。探せば見つかる選択肢も「ない」前提であきらめてしまう「どうせ」マインド。柔軟性の低さが、選択肢の少なさを作り出し、その状態が自分の首を絞めていたんだなぁと今だからわかります。
あの10代の息苦しさ、閉塞感、生きづらさの感覚から20年ほど経った今〈生きやすさとは選択肢の多さなんだ〉と気がつきました。具体的な環境、行動の選択肢があることはもちろん。でも…それ以上に、心と思考の選択肢の多さが、生きやすさの主成分なんだってこと。環境や行動の選択肢は、その結果として生まれてくるものなんじゃないかな、って。
時間と経験は、宝物
かといって、じゃぁ10代の頃の私が「柔軟性が大事だよ!」ということを知ったとして「30代の今と同じ柔軟性や、視野が持てていたかな?」と思うとそれはまったく自信がありません。知ったとしても理解しきれず、腑に落とし込みきれず、まだまだ天に唾を吐いていると思う。
失敗したり、痛い思いをしながら「事実は同じでも、どれだけ多くの解釈を持てるかでこんなにも世界が広がるんだ!」って感動を味わったから、深く刻み込まれていくものがありました。
環境や行動に文句を言いながらも、本質的には自分が変わらなければいけないということはどこかでうっすらと感じていました。でもその変え方が分からない。何をどう取り組んでいいか分からない。その試行錯誤の繰り返しの結果、思考や感情、信念や価値観の整え方、アップデートを鍛錬して、身につけられたものがありました。
経験と時間を重ねることで、開けていく世界があるんだということを学びました。そしてそれはどんどん更新していけるんだ、という自信につながりました。
生きづらさは、あるものとして
今の私にとって「今、いい感じだな〜。」って思える時は、物事に対峙したときに柔軟にいられて、選択肢を自らたくさん見つけられる状態のときです。
柔軟性とは…風が吹けばたおやかに流れるように揺れる木の葉のように、その場所に根差しながらも気持ちよさそうに流されている状態のことかな。その人が大切にしたい価値観が中心にあって、あとはゆらゆら揺れている。そんな柔軟性を高めていく結果、選択肢が生まれるんだと思います。
これからもきっと「生きづらさ」には出会うのではないかな、と思います。ただその度に「はい、来た。柔軟性を高めるチャンスね〜。」とか「これまで考えたこともなかったような選択肢の扉を探すゲームね!」ってスイッチを入れ替えて、楽しみながら向き合って行けたらいいかな、と思うようになってきました。
気持ちいい、呼吸が通るようなタペストリー
1つの出来事についてどれだけ多くの解釈をすることができて、その中で自分にとって今のマイベスト!を選べるか。
その無限のループが折り重なって人生というタペストリーができていくとしたら、その時その時のマイベストな色と糸を選んで、自由に、気ままに織り図柄を描いていけたらいいのかな。統一感がなかったとしても、場所ごとに織り方が違ったとしても、とっても気持ちいいたった1つのタペストリーが出来上がるんじゃないかな。そんな風に思うようになってきました。