なんとなく自分で気づいていることでも…人に言われたくないとき、言われたくないことってありませんか。
隠したい。言われたくない。知られたくない。もしも指摘されようものなら、逆に攻撃的になってしまうようなこと。よくないって分かっている。変えたい。恥ずかしい。だから白昼の下になんて晒さないで!そういう部分って誰でも持っているんじゃないかな。
それなのに、その話をすること、メッセージを伝えてくれることが嫌じゃないことがある。なんでだろう?

「本当は見たくもない部分や、知られたくもないことなのに、この人に言われるとスッと入ってくる」ということがあります。なぜだろう?と考えてみるとその相手の人の中に、私が「だめだ」とか「こんな自分はみっともない」とか「恥ずかしい」と思うことが、まったくない人からのフィードバックや言葉はとっても受け入れやすいんだなということに気がつきました。
「え?それってあなたの魅力だよ。」
「え?それって自然なことじゃない?」
「それは悪いことじゃなくて、素敵なところだよ。そこがいいところだよ。」
心からそう捉えている人からの言葉って、一言でこれまでの前提をひっくり返してくれますよね。
裏側にあるエネルギー

逆に、言葉では「いいよ」「大丈夫だよ」と同じような言葉を投げかけられてもなんだか受け取れないこともあります。
それはメッセージの受け手側(自分)に課題が時もあれば、メッセージを送っている側(相手)に「言葉とは異なるメッセージが含まれている」場合もあって一概には言えません。
けれどメッセージを送る側が「それいいじゃん」と言葉で言っていても、その背景にある少しの「斜めの感じ」があるとしたら、それはなんとなく伝わってくるものだなぁと。そこに少しの否定や、少しの澱みのエネルギーがあるとき、それはなんらかの形で伝わるし、それを感覚的に受け取っていませんか。
受け手側もそれが「何か」はわからなくても、気づいていなくても、ふわっとその否定や澱みが伝って、それが積み重なってそのメッセージの意味や、相手との関係性っていうのは出来上がっていく気がします。
ジャッジのないフィードバック

信頼関係のある中で、ニュートラルな視点で、シンプルなメッセージを伝えられることは、とっても気持ちいいし、受け取りやすい。もしもそれが自分にとっては気付きたくなかったことだったり、隠していたかったことの場合、一瞬「うっ…」と取り繕いたくなるけれど…
ただそれが「相手の正当性を証明するため」のメッセージでもなく、「言葉以外の意図がある」わけでもないとき、それは物事の捉え方が180度も変わっていくような気づきの入り口になる経験をたくさんしてきました。それをきっかけに自分で無意識に「悪」「恥」などと思っていた物事の捉え方が、大きく変わるきっかけになったなという体験をたくさんしてきました。
信頼関係のある人との関係性の中で、なるべくニュートラルな視点で、シンプルにメッセージを伝える。私自身が、そうありたいなと思っているけれど、そのためにはいかに自分自身の考えや捉え方に自覚的であるかがすごく重要で、日々鍛錬ですね。
それと同時に、私自身が「気付きたくない自分」と対面する必要があるときもしょっちゅうで、その度にそういう存在がそばにいてくれることがとても力強く、ありがたいなと思います。それによって、シンプルにスムーズに、向き合うことができるなぁと。
自分自身がそういう在り方でいられるように取り組むこと。また、こういう存在や関係性を育み、大切にしていくこと。一朝一夕ではできないけれど、じわじわと日々を豊かにしてくれるものだなぁと感じています。