こんにちは。ERIです。
ここでは私のライフヒストリーをご紹介できたらなと思っています。
今は〈私らしく生きる〉人生の転換点を伴奏するライフコーチとして活動していますが、それは他でもない私自身が迷い、悩み、紆余曲折いろんな経験をしたからこそ同じ悩みを持つ方の力になれたらな、という想いからスタートしました。
レールから外れたい、のに外れられなかった学生時代
私は会社員の父と専業主婦の母の元、3人兄弟の長女として育ちました。勉強も運動も一生懸命!という絵に描いたような優等生&長女気質のしっかりもの。ただ幼いながらに親や大人の「こう生きて欲しい。こうあるべき。」というレールを察知して「そうあろう」としていたようにも思います。
中学、高校は友達に囲まれて学生生活を思いっきり楽しみながら過ごした6年間でした。たくさんの矛盾や葛藤、悩みや不安を抱えながら過ごすこの思春期のタイミングに出会った人たちは、”私らしくいる”ということを一番最初に経験させてくれた今でも大切な存在です。
学生生活を謳歌する反面、親にも、学校にも、ことごとく反抗するようになっていったのもこの頃でした。厳しかった両親への反発と、小さいころから感じていた閉塞感、息苦しさから「ここではないどこかへ逃げたい。」そう強く思うようになって行きました。
試練でしかなかったアメリカ留学
そんな矢先に知ったのが高校生の交換留学制度でした。”留学”というと何かを学びたくて…英語が話せるように…なんてすごいかっこいい理由がありそうですが、私の思いは「留学したら自由になれる!両親から、日本から、息苦しいこの世界から逃げれる!!!」その一心だけでした。慌てて応募し、紆余曲折ありながらも留学が決まった後には、楽しい妄想しか頭にありませんでした。
1年間日本での準備期間を終え、高校2年生の夏に初めての飛行機、初めての海外、そして初めて1年間お世話になるホストファミリーに会う…と初めてづくしの、でも夢に見た留学生活が始まりました。大きな家々、広大なショッピングモール、バケツのようなアイスクリーム…まさに映画で見た風景が目の前にある驚きと、新しい発見の連続。刺激的で最高の毎日が続く…ハズでしたが、学校が始まるとその期待は大きく裏切られることになりました。
学校が始まってみると留学先は人種のるつぼとも言われるアメリカ南部。移民・移住者も多く、異なる文化・言語・人種の生徒が絶え間なく出入りしている公立高校でした。後に同じように留学した他の友達に聞いてみると学校や地域によってシステムが大きく異なることを知りましたが、私が通う高校は1800人ほどいるマンモス校で、日本のような手厚い留学受け入れ体制は皆無。選んだ授業ごとに教室も先生も生徒も変わるスタイル。そんなところにまだ全然英語も話せないまま、私は1人ただ「ぽんっ」と放り込まれる形で学校生活がスタートしました。
始まってみると学校の仕組みがよくわからない。授業も”今、何をしているか、何をしたらいいのかわからない。授業ごとにアクションをしてみるけれどうまく伝わらない、何か答えてくれても聞き取れない、理解できない。そして必死に食らいつくも「Never Mind.」と立ち去られてしまう…結果コミュニケーションが取れない…のないないづくしの毎日で、想像していた最高の留学生活の夢は1日で崩れ去りました。そしてこれが孤独と試練、挫折の始まりでした。
想像していた最高のアメリカンライフとは程遠い目の前の現実に、毎朝鏡の中の自分を見ては「私、何しに来たんだろう?」と話しかける数ヶ月。自分が行動しなければ困っていても誰も気にしないし、教えてくれない、何のサポートもない。今なら「そうだよね」と思いますがその当時の私にとっては想定外の出来事でした。とにかく自分で動いていくしか方法はない。せっかく来たんだから楽しみたい!友達を作っていろんな経験をしたい!そう思い直した後、バカにされても、無視されても、邪険にされても、分からないところは分かるまで人を捕まえて教えてもらい、サポートをお願いし、クラブ活動に参加し、毎日毎日カタコトの英語で新しい人に話しかけて行きました。学校で見聞きした英単語は片っ端からメモして帰っては、家でホストマザーに教えてもらう…そうやって状況を変えるために毎日必死でした。「どんなに失敗しても、どんなにカッコ悪くても、もうやってみるしかないんだ。」選択肢は1つしかありませんでした。
日本のように学校に行って、放課後は部活をして、休みの日は友達と遊んで…そんな日々を想像していたところから一転、留学した途端学校と家の往復だけの生活になりました。「なんでここに来たんだっけ?」「こんなに辛いなら日本にいた方がまだマシだったな。」「帰ってからどうしよう?」うまくいかない学校生活や、これからの将来のことを取り留めなく考えるには十分すぎるほどの時間がありました。
ある時「私は将来、何がしたいんだろう?」と考えてみた時に何も出てこないことに「ハッ!」としたのです。その時点で知っている仕事や職業でやりたいと思うものがない。「そっか…そしたらまだ知らない職業か、もしかしたら自分で仕事を作るのかな…?」とその時はぼんやりと区切りをつけたのですが「私は、何をしたいんだろう?」これこそ、その後の私自身にとって大きな影響を及ぼす大切な”問い”となって行きました。
こうしてアメリカでの1年は【日本の常識は他の常識ではない】というとても当たり前だけれども、体験しないと実感できないようなたくさんの発見と、これまでの私の当たり前がことごとく壊されたとともに、その後の人生を支える大切な礎となりました。
”波乗り人生”のはじまり
帰国後、初めて真剣にこれからの進路に向き合うことになりました。
やりたいこと(ファッション、メイク、インテリア?)の専門学校に行こうと考えるも、まわりの”大学進学が当たり前”という雰囲気を感じながら「”一般的なルート”として大学は大切だよなぁ。もし大学に行くなら、みんなが勉強している今しか…頑張れる気がしないかも。」というよこしまな理由で大学進学を考え始めたのは帰国して4ヶ月後、高校3年の11月のことでした。そして唯一足を踏み入れた瞬間に「あ、私ここに来たい!」と強烈に惹かれた場所がありました。それが早稲田大学でした。
「今からは難しいよね。」「無理でしょ。」「まぁ、浪人して来年もあるからね。」そんな”浪人するもの”という雰囲気が流れていることも私の思いを一層強くするきっかけになった部分もあったかもしれません。「え?なんで無理って決めつけるの?やってみないとわからないじゃん!」そう思った私は、その日から合格のための1人作戦会議を始めました。高校のクラスは理系だったにも関わらず「この状況で入れる可能性があるのは文学部だ」と狙いを定め、「今さら予備校に通い始めてもすでに1年以上も遅れている学力を埋める事はできない」と他の人のペースに合わせる事は早々に諦めました。その代わり「今あるもの、できる事で考えよう」と自分にあったやり方、参考書などを学校の先生、友達、両親などありとあらゆる周りの人たちの知恵を借り、助け&サポートしてもらいながらやって行った結果、なんと奇跡的に合格することができたのでした。
一番最初に大学に足を踏み入れた瞬間「ここだ!」という直感と、その瞬間に自分がそこに通っているイメージがありありと浮かんできてワクワクが止まらなくなりました。それをリアルで実感したくてしょうがなくなって、一心不乱に勉強したこと。また誰からも期待されずにいたからこそのびのびと自由に、自分にあったやり方で挑戦することができたこと。そして「絶対に無理だよ」と言われながらも「いや、私はあそこに行きたい。」という強い想いがあったことで最後までやり遂げることができたのがこの経験でした。
そうは言っても周りは誰一人私が合格するとは思っていなかったし、できる事はやり切った私自身でさえびっくり!な結果。これまで努力しても報われないこともたくさんあったのに「なぜ今回はこの短期間で夢が実現できたの??」この疑問が、この後10年の月日をかけたテーマになっていきました。
大学ではバイトをしてはいろんなところへ出かけ、様々な体験をして行きました。留学時に浮かんだ「私、これから何がしたいんだろう?」という疑問。この答えが知りたくて興味のあることをどんどんやってみても、分かるのは「これがやりたい!」ではなくって「これは違うな。」「こういうことじゃない…」ということばかり。結局知りたかった答えを見つけることはできませんでした。「このままでいいのかな…」と思いながらもそこから外れることもできないまま大学生活を送り、気づけば就活に突入。ここで改めて私は大きな壁につぶかることになりました。それは他の友達がスムーズに進んでいく”普通”の就職活動が、私にはまったくうまくできない、ということでした。
自己分析や、業界、仕事のリサーチをしても”何がやりたいのか”結局わからない。さらには”自分の強み”がわからない。ピンとくる会社もなくワクワクする仕事にも出会えない。そして100社以上エントリーをしても書類も通らない。やっとの思いで面接に滑り込めたのも数社。面接に行っても伝えたいことがうまく伝えられず、泣きながら帰ることの連続。「就職するのは当たり前。」「大手企業に入るのがいい。」そんなまわりの当たり前、普通が「私にはできない。 どうしてできないんだろう? 」就職活動を通して私は働くということについて不安だけが膨らみ、そして完全に自信を失っていきました。
99敗1勝で掴み取った就職
そんな中とってもリラックスして、楽しく選考に臨むことができた会社が1つだけありました。住宅メーカーでした。小さい頃から間取りを考えるのが大好きだったので、選考過程も”自分の家づくり”の気持ちで話しているとあっという間に選考が進み、内定。不思議でした。あんなに苦痛でしかなかった就職活動の中でここだけ「何もしなかったのに?」と思うほど、楽しんでいたらするすると進んで行く。そしてどうにか「普通のレールに乗れた」そんな安堵感を感じていたのでした。
入社してからは、人生で一番高い買い物のパートナー(住宅営業)として「建物」という「もの」だけでなく「空間」という その家族の繋がりや未来をデザインすることが楽しく「その家族にとって最高の住まいづくり」に取り組んでいきました。
仕事自体はハードだったけれど1つとして同じものがない家づくりは刺激的で、家が完成してご家族に引き継ぐ時は涙が出るほどうれしく、感動の連続でした。本当にステキなご家族ばかりで、とことん打ち合わせをして、これから長く住んでいく姿を想像しながら「想い」を形にしていく。期待を上回る家づくりを喜んでもらえる事はこの上ない楽しみでした。そうやって年々できる仕事の幅も広がり、家づくりのやりがいや面白さを実感する機会も増えていき、順調に見える社会人生活でした。
ただその反面、私の内では「このままで、本当にいいのかな。」という声にならない声が、ずっと遠くの方で響いていました。「なんか違う」と感じることがあってもその声をかき消すように「社会って、会社ってこういうもの。働くってこういうことなんだ。」「そんなの私のわがままだ」「合わせられない私がダメなんだ。」そう自分に言い聞かせて、自分自身をまわりに合わせ、騙し、どうにかその中で生きていくように自分自身を押し殺すことに慣れて行きました。そうしていくうちに「あれ?私は人の幸せづくりのお手伝いをしているのに、私自身は今、本当に幸せなのかな?」「私は何のために仕事しているんだろう?」という答えられない自分の声がどんどんと大きくなっていきました。
25歳・無職・家族分断の暗黒期
〈社会のモノサシ〉でいいとされる学歴、仕事、収入、環境、そして常識。多くの人が「当たり前」と信じていることでも、私には自然とそう思えない、またできないことがたくさんありました。 みんなが「いい」と言っている場所に行ってみても私はそこで「幸せ!」と自信を持って言うことができず、一生懸命働いてみたけれどそのすべてを心から「楽しい!」と思うことができませんでした。
どんなに結果が出ても「もっともっと」「まだまだ足りない」と自分の足りなかった部分に目がいき「もっと頑張らなくちゃ。」「なんで私はこんなにできないんだろう」と自分を責める日々が続いていたし、周りの人に認めてもらうことでうれしい気持ちは湧き上がって一時的に満たされるも、それは長くは続きませんでした。
ある休みの日、ベッドから出れず、自分の感情が、感覚が何も感じられないことに気づいた時に「このまま、ここにいたら…このまま、同じ選択をし続けて行ったら…私は、私でなくなってしまう。」
自分の声を否定しづけるのも、怒りを原動力に動くのも、自分の大切にしたいことや考え方をごまかして自分自身を騙して生きるのも、毎日のように飲み続ける頭痛薬で痛む身体を無視するのも「もう、限界だな…」そう思った私は、退職を決めました。
不仲だった両親には退職に猛反対された挙句、関係性はさらに悪化していき、そんなタイミングで長く付き合っていたパートナーとも別れることになりました。精神的な支えだった家族、パートナーの存在を失い先もまったく見えず、何もないまま無職になり、25歳で大切だったものを全部手からするりとすべり落としてしまいました。なにもなくなった私は、毎日近くの公園に行って1日ぼーっとするのが日課になりました。そして再び同じ”問い”にぶつかってしまいました。それはこの時に始まったことではなくて、それまで何度も何度も強く感じながらもその都度「なかったこと」にしていたことでした。
それは〈他人のモノサシ〉を自分に押し付けて、誰にも反対されない無難な正解を選んできたことに感じていた〈違和感〉でした。
「私にとっての幸せってなんんだろう?」
「私は何者で、これからどうやって生きていきたいんだろう?」
この問いに、またぶつかったのでした。
もうこれまでの違和感に耐えられなくて、とことんこの問いと向き合うことを決めました。とは言え…正解のない問いにどうしたらいいのか全く見当もつかず、いつその答えが見つかるのか目処も立たず、真っ暗なトンネルを見つめ続けるような暗黒の時間に突入したのです。時間だけはたっぷりあったのでまず手当たり次第本を読みあさりました。朝から晩までさまざまな分野の本を読んではメモを取り、できることはすぐに実践していきました。自分の気持ちや考えを言葉にして、整理して、ひたすら自分と向き合い始めました。25歳、周りは仕事に没頭し楽しそうに新生活を満喫している中、私だけ時間が止まり、1人どんどん取り残されていく不安と恐怖でいっぱいでした。ただ「これまでのレールには絶対に戻っちゃいけない気がする。」そんな自分の直感だけを信じて、藁をも掴む思いで今自分に必要な”何か”を探し求める日々の始まりでした。
人生の転換点
そんな暗黒期を過ごしているある日、目にした雑誌の小さなコラム。その記事を読んだ時、衝撃が走りました。「あ、これだ!」そう思った瞬間の映像を、感覚を、今でも覚えています。記事には”コーチング”という言葉と、その基本概念の1つでもある「答えはあなたの中に」という話が掲載されていました。そう「答えはあなた(自分)の中に。」ものすごいシンプルなことだけど、この時の私にとって1番の”答え”でした。なぜなら私自身がずっと外に答えを探し続けてきていたから。
このコーチングとの出会いがこれまで外にばかり答えを探し求めていた私自身の視点を変え、これからの人生を決定づける大きな転機となりました。「私自身、自分の持てるものを最大限いかして生きてみたい!」という想いと、「”人の幸せづくり”により直接的に携わりたい」という、これまでおぼろげだったピースがぱちっとハマったのでした。当時コーチングは日本ではまだあまり知られておらず、とにかく調べ、足を運び、動き続けました。その途中に出会ったのが2社目となる人材教育・実践心理をベースとしたセミナー会社でした。
浴びるように受けた〈質問〉
まだ創業間もないタイミングに入社し、さまざまな業務を横断的に経験しながら、サービスである自己変革&実現のプログラムを深く学び、実践し始めました。
そして心理、コーチング、脳科学の世界を知れば知るほど、その範囲の広さ、奥深さに驚きました。同時にトレーニングに参加して、学ぶだけでなく、それらをいかに自分の人生で、日常で、生活に実践して、習得していくか?がいかに重要で、でもいかに難しいことかを痛感していきました。体系的に学び、実践して、習得するまでには膨大な知識と経験と反復、時間が必要。だけど、その1つ1つはとてもカンタンでシンプルな仕組みです。
自分の変容や成長に「これはすごく使える!」と実感していくことで「選択は間違っていなかった」という確信に繋がっていきました。実際に私自身の内面が変容して行くことで、現実に起こること、物事の受け止め方が変わって行くことは自信になっていきました。そしてコーチング、心理や脳科学を学び、人の変容や成長について知れば知るほど「え?そうだったの??」とこれまでの考えを覆され「もっともっと早く知りたかった…」という想いが重なって行きました。
学び、実践すればするほどこれまで悩んできたこと、困ってきたこと不可能だと思っていたこと、なかなか変えることができなかったことすべてこんなにもカンタンに解決できることだったんだ!という衝撃の事実。親との確執の根本解決や、物事の視点の切り替え方、持っている能力の発掘と伸ばし方。感情との付き合い方や、自分、そして他人とのコミュニケーション方法、自己肯定感の高め方や不要な思い込みのリリース…私自身の課題をクリアして行くごとに、これを1人でも多くの人にシェアできたら、これまでの私のように困り、悩み、迷っている人の力になるのにな…という思いも増して行きました。
自分に正直に、楽しんで生きたい
25歳の全てを失った暗黒期。私はスケッチブックに3つのことを書きました。
①楽しむこと
②自分に嘘をつかない
③自分を信じる
いい仕事でも、いい生活でも、いいお給料でもなく私は自分が”楽しい”と思えるものを選び取っていきたい。そこから「自分軸」「自分の気持ち」を大切にして「自分に正直に生きたい。」その信念を実現させるために紆余曲折しながら、私自身を変化させてきました。
「もう自分に嘘はつかない」と決めて、何がわからなくても一歩踏み出したことがすべての始まりまでした。そして「他人軸」→「自分軸」への変化というのは、生き方の物差しがごそっと変わる大きな大きな移行期で不安や恐れ、恐怖や焦り、怒りや悲しみなどさまざまな感情が渦巻く時。自分の声と、他人の声の区別がつけずらく混乱する時期でもありました。
そんなときに私がいつも思っていたのが「この移行期に見守っていてくれる伴奏者が側にいてくれたらどんなにいいだろう」まわり道ばかりのように感じられて、全部が失敗のように思えて、さまざまな葛藤で渦巻く感情に振り回されてしんどい…と呟きたくなる時に「あなたなら大丈夫」と信じ続けてくれる仲間がいたら…どんなに心強いだろうという叫びにも似た願いでした。
それが実現可能かどうかはその時はわからなかったけど「そうありたいしそれを実現する方法は必ずあるはずだ」と想い、考え、行動し続け、諦めることはしませんでした。そしてそれから10年が経過した今、私のまわりには私自身の伴奏者として見守り、信じてくれる仲間がいて、一番やりたい仕事を自分で創り、一番ワクワクする瞬間をクライアントさんとともに経験させてもらっていて、さらには「ありがとう」と言ってもらえる、夢にまで見た日々になりました。
すべてが今に繋がっている
今やっている「ライフコーチ」として必要な要素は、私にとってのコンプレックス&苦手だったことばかりです。コーチやカウンセラーというと、もともとコミュニケーションが得意だったり自己理解や自己分析、そして自己表現も上手なイメージを持たれるかもしれませんが、私はすべてにおいてその正反対でした。ただ”自分に正直に、楽しんで生きたい”という希望を諦めることができなくて、失敗しても失敗してもとにかく続けて来たこと、挫折してもどんなに時間がかかっても諦めなかった1つ1つの要素が集結した結果、今、ライフコーチという仕事になっています。
たくさんの失敗と
たくさんの挫折と
たくさんの葛藤と悩みと
長く暗い孤独の時間があったからこそ
つまづいた時の「やっぱりダメだ」と思ってしまう気持ちも、動きたいのに動けないもどかしさや葛藤も、自分を受け入れられない辛さも、誰にも伝えられない悲しさも痛いほど共感できるのかな、と思います。そしてそこから「じゃぁ、どうして行こっか?」と希望を持って、実現へと動き出すたくさんの選択肢を一緒に考えていけるようになれたのかな、と思います。
また大企業の会社員、小規模事業会社のマネージャー、独立したライフコーチと、さまざまな経験を通して、異なる環境、立場、仕事の経験をしたからこそ各ステップでどんな不安や恐れが起こるのか、現実的にどんなことが起こるのか、どうやって変容して行くのか…その細かいステップや変化に気づけるようになりました。両親、特に私の場合は母親との関係においては20年近い葛藤と、深くあった確執にどうやって向い合い自分自身を理解して行くことでどう解決して行ったか?私も悩み、格闘し続けたからこそ理解できる気がします。これまでのすべての経験が今、いろんな方の人生の核に触れさせてもらうライフコーチとしての私の宝物になっています。
私は、私の人生を通して「心の楽しむ方へ。そんな生き方もできるよ。」ということを体現できたらいいな。そして”私らしく生きたい”と願う人の伴奏者として自らの人生に挑戦し続ける人のそばにいられたらいいなと思っています。